昭和33年に僕は生まれた。
つまり今年は還暦の年。テレビが発売されて間もないころで、ドラマ、ベンケーシーで使われる聴診器のおもちゃが売れて、力道山の空手チョップで敗戦のうっ憤を晴らし、そう街頭テレビが設置されたころだ。
最初の音楽の記憶は2歳ぐらいのころで、ザ・ピーナッツの「黄色いサクランボ」で唄に合わせて合いの手を入れていたらしい。
いや、これは母親の記憶で僕の記憶ではない。父親は自営の旋盤工で近くに工場を借りて仕事をしていた。父親が旋盤を回しながら歌う浪花節が最初の記憶だ。
やがて我が家は一軒家を購入し、家の中に工場が作られて毎日仕事をする父親の背中を見ることになる。
ラジオから流れる音楽は演歌とムード歌謡ばかり。子供の耳にはなじめない。正直うんざりしていた。
男女のもつれた歌詞ばかりだった。大人になりたくなかった。
驚いたことは「帰ってきた酔っ払い」を聞いた時、何かが変わる予感がした。
小学校5~6年の時、ラジオから流れてきたのが「真夜中のギター」、札幌オリンピックの年には
「虹と雪のバラード」を合唱させられた。「白い色は恋人の色」、「フランシーヌの場合」「時には
母のない子のように」新鮮な耳の感触を楽しんだ。
当時、特撮の怪獣映画が子供達には人気でガメラを見に近くの映画館へ行った。同時上映でザ・タイガ
ースの映画も一緒でまったく期待していなかったが、なぜか心を惹かれた。
バンドでの音楽に興味を示したのだろう。近所にラッパズボン、長髪の若者も少なからずいた。
父親の工場に若者が働き始めた。僕はよく若者のアパートに遊びに行った。
前職が電気店に勤務していた関係か、ステレオが部屋にあったのだが廃品を組み立てたカバーのない
むき出しのステレオセットだった。テレビはなくいつも音楽をかけていた。
夏の日、ある時の風景で部屋の窓を全開にして音楽を聴いていた。ジャズのレコードだっただろうか
覚えていない。
いつもケンちゃんと呼んでいた。ケンちゃんがある日、友達の住む町立川に連れて行ってくれた。
改札を出て街を歩いていると制服を着た白人と黒人が歩いてきた。巨大な人間、鼻に漂うバターのにおい。
知人のスナックに到着した。音楽がかかっていたのだが何がかかっていたのか、それ以外の記憶はない。
その時から西洋音楽にはバターの匂いがした。何年かしてケンちゃんは家の工場をやめた。
最後の日、夕日に向かって歩いていく後姿をみて追いかけて行かない自分が情けなかった。
最後の日、夕日に向かって歩いていく後姿をみて追いかけて行かない自分が情けなかった。
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